2020年01月20日

かえし受けるいのち(2)

       (前日からの続き)
いのちの流れというものはとどまることを
知りません。
そしてそれは、肉体などという私ども肉体人間の
眼を超えた、霊妙なひびきを持つ光そのものの
光体を貫き、遂に宇宙神のみふところに
流れ込んでいるものなのであります。

つねに新しくされるということは、古い自分を
脱ぎ捨てているということでありますけれども、
これが、この現世における「死」とおなじように
とらえられるならば、それは全くことなった死
なのであります。

本来、いのちというものは、ずっと、神の愛の
もとにみちびかれて絶えることのない流れ
でありますので、その節目節目における「死」は、
一つの仕事、修行をやりおえた私どもが、
さらに素直に神様の光のなかに生きるために、
また、より深くより広い人類の進化のために、
一区切りがついた、そして、次はここだという
本心本体への覚醒を指すのであります。

私どもは、すきとおるような神の愛と神への
愛を受け、またささげるために、この地上に、
また宇宙に連なる存在なのでありますが、
こうした光体から、遂に神の光のひと筋と
なるために、永遠のいのちを受けて
いるのであり、祈り-世界平和の祈りは、
各自に分けられたこのいのちのかがやきを、
いやが上にもかがやかすのであります。

こうした人間のいのち、自分自身は
かがやく神の光であり、いのちであると、
祈りのうちに、この宣言を神への最上の
そなえ物とする時、辺りはよろこびの光に
みちるのです。

どうか、果てしなく円環しつづけるいのちを
みつめるためにも、一切を消えてゆく姿と
観じ切る、とらわれを放つ神への信をかためて
いただきたいものであります。
         昭和61年12月16日 夜
             五井 昌久
posted by spacelight at 11:48| 祈り | 更新情報をチェックする