2019年06月30日

短 信(37)

この世は、光にみちているのであります。
神の光、神の愛に満たされているのが、
この世であるのであります。

我々は、この本来の姿におもいを到して、
想念を愛とやさしさで満たし、自ずからなる
光明をもって、天地をつらぬく光の柱と
なることができるように、日々、世界平和の
祈りをなしつづけているのであります。

人間の心のなかに眠っている本心の光を、
一刻もはやく、完全にあらわし切るために、
我々が、神からわかれてきた朗らかな神の
いのちであることをよろこび、おそれ、
つつしみつつ祈りの光をみたすために、
私どもは、世界平和の祈りをなしつづけて
いるのであります。
なしつづけてゆくのであります。

世界人類が平和でありますように
               合 掌
                昌 久
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2019年06月29日

短 信(36)

神様の器になる、器をみがくということ
について申し上げますと、人間という
ものの生かされている本来の目的が、
神様の光を、この肉の身のままに素直に
受けてかがやかせるということなので
あります。

それは、その人が意識するしないに
かかわらず、またすべての境遇によらず、
この世の年齢によらず、すでに一人一人は、
神様の愛を、光を、地上に結ぶ役割を
果たしているのであります。
また、果たしつつ あるのであります。
私たちの肉体はそれを知らなくても、
私たちの霊身は、それを知っている
のであります。

そこで、神様の器になるということは、
どういうことかということを、もう少し
くわしく申しますと、それは、神様に
素直になるということであります。
人間にはさまざまなおもいがある、この
おもいを、想念を、やさしさでいっぱいに
する、光でいっぱいにするということ
であります。

何も、特別に、神様神様とおもわなくて
いい、ひたすらに求めるというのと、
自然に求めるというのとはちがっている。
神様からきている生命、預けっ放しの、
お任せのいのちなのですから、ずーっと
神様のところへ放っておいても心は
むかってゆくものなのであります。
イヤダといっても、守護霊さん守護神
さんが連れてゆくものなのであります。

さて、神様というのは、何かと申しますと、
それは、無限絶対の愛であります。
ですから、神様から分かれてきた
分生命(わけいのち)、分霊(わけみたま)
である人間は、愛を植えられてつくられて
いる。
愛とやさしさ、そして、この二つのものを
育ててゆくつよさ、これこそが、人間の
いのちを生かしている大元なのであります。

神様は、人間をやさしくつくった。
ですから、何もその人が、思い悩まなくても、
やさしさを持って人に接する時、そこに、
神の愛が、光が、ともにあって、放射されて
ゆくのであります。
神様の器になるということは、ですから、
本人が意識するしないにかかわらず、
自らのなかにやさしさを盛るということが
第一歩なのであります。

ところで、人間は、神様の愛によって
つくられた存在でありますから、心を
しずめ、心をすませて参りますと、
生きているということの不思議、生命の
不思議について想いをめぐらさずには
いられなくなるのである。

どんな人も、生命の親である神に眼を
そそぎ、神様というふるさとへの旅を
はじめて参るのであります。
それが人間の本来のすがたなのであります。

私たちの世界平和の祈りは

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます

という、誰にでもわかるやさしい
祈り言葉によって、神の大愛のなかに、
すべての人を抱きとろうという大神様の
みこころが結集した祈りなのであります。
これまで、地球界に降り立ったすべての
聖者方の祈りがあつめられた、結集した
祈りなのであります。

特に
世界人類が平和でありますように
という第一句は、現在宗教信仰によって
いる人もそうでない人も、すべての人の
心のなかにある人類共通の祈り心を
呼び覚ます祈り言なのであります。
この祈り言を思い唱えることによって、
一個の人間としてはそのまま、世界人類
という大河のなかにある自分を経験する
のであります。
世界人類のなかにある自分を観じてゆく
のであります。
それは、何かといえば、愛にほかなりません。
愛と祈りに他ならないのであります。

こうして、我々は、我々のなかにある
何物にもしばられぬ自由な祈り心を、
静かな祈り心を見出し、神という絶対無限
の大愛へと連なって参るのであります。

信仰を持っている人は信仰を持った
ままで、この祈りを唱えて参りますとき、
その人の持っている光は、よりつよく
やさしくかがやいてゆくのであります。

すべての信仰、すべての祈りは、神への
みちしるべでなければなりませんが、
生命の不思議に想いを到し、世界平和の
祈りに触れた人は、一人のこらず、神の
愛にとらえられるのであります。
守護霊が、守護神が、ぐんぐんと
神様の方に、一人一人を引っぱってゆく。
ですから、神というものを抜きにしては、
その人は、この生命を考えられなくなる
のであります。
そうして、段々に祈りを深くし、唱えて
参りますと、何よりも、神に素直になる
ことが大事なのだということがわかって
参ります。

いわゆる運命というものにも、宿命
というものにも、動かされない自分に
なって参ります。

我々がしたがうのは、運命ではなく、
神なのだということ、神は、善でも悪でも
なく、限りない愛なのだということが理解
されてくるのであります。
どんなことがありましょうと、神は、
我々のいのちのすこやかさを奪う方では
ないのであります。
しかも、このいのちは、永遠永生であって、
神とともに、宇宙のけいりんをなしてゆく
何百生にもわたる我々への神のいつくしみ
であり、ゆるしであることをおもいますとき、
我々にのこされたものは、ただ神への感謝
であり、愛であり、この神に素直ないのちと
なって生き徹すということなのであります。

しかも、我々のいのちは、神によって、
守護の神霊によって、また、この世に
ともに生きる愛する人々のこころによって
支えられ、守られているのであります。
いのちはじねんほうに。
ただ、神に預け、神に任せ、肉の身の生死を
朗らかにこえていきるいのちとしらされますとき、
我々は、神の器となってゆくのであります。
              合 掌
                昌 久

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2019年06月28日

短 信(35)

不安やあせりをよくないというのでは
ないのであります。
ただ、それは、本来の姿ではない
のであります。
とらわれるということを、戒めたわけ
なのであります。
それも、否定を致しますと、今の肉体界
ではやってゆけなくなりますから、私は
消えてゆく姿という言葉を用いたわけ
なのであります。

私は決して人間の心の動きや、気持ちの
動きを否定は致しません。
それは、私自身が 肉体をまとった経験から、
どんなにそれが辛いものかということが
わかるからであります。

そこで、この消えてゆく姿という教えが、
私どもを真理へと導いてゆくのであります。
何があろうと、どんなことが起こって
こようと、それは消えてゆく姿。
ただ、神の愛のみが消えずに、厳然と
かがやくのであります。

私たちは、この神の愛をまとって
生きている一つ一つの生命、神からの
分生命(わけいのち)であります。

私たちのなかに神は在って、光をながし
つづけているのであります。
私たちは神とともにあり、神とともに
生きている。
そして、神の大愛は、私たちのすべての
苦しみを 御存知で、それをいやそうと
して下さるのであります。
否、すでに私たちは、大愛のなかに
抱きとられて、いやしを受けているので
あります。

神を信じ、神の大愛を信じ、人間が
神の光の一筋であることを信じて、
どのような 時にも世界平和の祈りを
となえて参りましょう。
            合 掌
              昌 久



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