2015年11月17日

続 さやけき生命(3)

      (前日から続く)
 こういう誠心とか祈り心とか静か心
というものは、目に見えるようで見えない。
 その人がいくら信心深く装(よそお)って
いても、外から見てすごいなあと思っていても、
私達がこちらから見ているとですね、
すごい虚栄がある人だねと見てしまうことが
ありますよ。
 そうすると、ほかの人はごまかせるけれど、
神様はごまかせない。
 ふりをすることはいくらでも出来るけれども、
ふりが通らないのが神様です。
 神様というのは、例えば、何十万も何百万も
お布施を上げないと、こちらに光を送って
もらえない、振り向いてもらえないとか、そんな
ものじゃないんですね。何故かというと、我々
みんな神様から分かれて来た生命なんだから、
その元に向かって自分が動いてゆく、
働いてゆく。そこに向かって素直に語りかけて
ゆく。そういうところを神様は喜ばれる。
 「愛(う)い奴じゃ」てな感じでね。
 ところが、そういうことというのは、さき程
申しましたように、本当に目に見えない地味な
ことなんですね。
            (翌日へ続く)
posted by spacelight at 06:23| 祈り | 更新情報をチェックする