2015年11月05日

さやけき生命(2)

      (前日から続く)
 ところが皆さんは、祈ってゆくんだけれど、
生活というものがあって、経済というものがあり
雑事があって、又、肉体を持っているから、
食べたり飲んだりしゃべったりしなくちゃ
ならなくて、雑事を片付けてるひまに、祈り
というのがどこかへ行ってしまう。本体は
祈ってるんですが、肉体の方は雑事を
優先してしまう。本体は、肉体の我々がどんなに
雑事にまぎれていようが何していようが、
祈って祈って祈り抜いているんです。見えて
いないけれども、ずっと祈り抜いている
わけですね。だからその祈り抜いているいのち
というものが、常に神様と出会っているし、
神様と話をしているし、神様といろんなことを
語り合っている、呼び合っている。

 そうでないと人間は生きてゆけないんですね。
 我々のもとのもとは、神様の愛によって
生かされているわけで、その清(さや)けき
いのちというのは、自分の中にあるんです。
 自分の中というのは、肉体の中という意味
じゃなくて、自分の本体、神様から
分けられて来た光の中にあるわけですね。

 そのことを知っている人は少なかったんですが、
今はもうそんなことを言ってる場合じゃなくて、
いろんな人が印を降ろしたり、光を
降ろしたりして、実際に我々が神様のもとに
ある生命なんだとわかってきた。
 我々のいのちの親というものが神様であって、
その神様の大宇宙神の目指しておられるところは
大調和であり大愛であって、我々は大愛の子
なんですよね。大愛の子というのは敵も味方も
ない。大愛の子のみんなが、世界人類が手を
取り合った時には、真実の平和が築かれて
いかないとうそになる。そこで争いなんか
起こって来たらこれはもううそになるんですね。

 それでも起こって来ることがある。つまり
それは、平和の祈りが足りないからだと。
 足りないというのは、平和の祈りそのものは
輝いているし足りているんですよ。ところが、
そこに想いを向ける自分が足りない。肉体が
悪いわけではないけれども、何が足りないのか
というと、自分が肉体だけの生命ではない、
自分は神様の愛によって生かされていて、
神様から来たものであって、その神様
というのは、我々の大きな器を与え光を
満たして下さっている。
 そういう時間が非常に少ない。だから
足りなくなって来る。

 こんなんでいいのかと思う。こんなんで
やっていけんのかと思う。月給が入って来ない
いろいろとどうしようかなと思う。これ全部
消えてゆく姿ですよね。たとえお金が無くても、
光が入っていることに気が付けば、お金なんて
ものはあとからついて来るんだけど、人間
というのは、やっぱり生活してゆかなくちゃ
いけないから、お金が無かったらやって
いけるのかと思うことが先にあって、光が
入っていることには気が付かない。光を
糧(かて)にしてゆくとお金が逆に
入って来る。
 生かされているということを自分のサイフの
中に入れると、実際にこの肉体を養ってゆく
もとであるお金が入って来る。逆なのね。
 皆んなお金を求めて光を後にしてしまう。
          (翌日へ続く)
posted by spacelight at 06:37| 祈り | 更新情報をチェックする