2015年10月09日

天命を神に求め 神に祈りながら…

     113 天命を祈る
 一体、人間が偉いとか、偉くない
とかいうおもいは、どこから
出てくるのでありましょうか。

 神様の前に、人間は一切平等であり、
みんなが神様の分生命(わけいのち)なのだ
ということが、頭ではわかっておりましても、
今一つ心では、からだではなっとくしていない
というのが、人間の想念の世界であり、何千年
とつづいてきた我々の思いグセなのであります。

 現世的にみれば、偉いとか、偉くない
というのは、ある高い位置にあるかどうか
ということですとか、その人のまわりに
人が沢山あつまってくるかどうかという
ことなど、何かその人のまわりが、にぎやかで、
はなやかで、つねに社会的に注目の的である
ということが、一つの目安となっているようで
あります。それでいながら、やっかみ半分、
ひがみ半分でその人のことを語ります時には、
そうした地位や、社会的なはなやかさなどを、
無理にはぎとりまして、その人自身の中身が、
いかに世間の評価とはちがったものか
という点から、みようとするわけであります。

 私などが、いい人、悪い人。また偉い人
というような言葉をつかいます時には、
その人の心の澄み清まった状態をみて
いうのであります。

 心を純にする。素直にして生きるという
ことほどむずかしいことはありませんが、
むずかしいと感じますのが、自分が素直に
なろう純になろうとするから、むずかしい
のでありまして、そのまま神様に投げ出して、
預けてしまえば、自分がなるもならないも
ないのであります。

 私が偉いといいますのは、こういう
お任せのこころ、お任せのいのちになって
いる人に出会った時であります。

 このお任せを一分でも一時間でも
つづければ、その人はその間、覚者という
ことができるのであります。また、
そうなるように、私は光をおくって祈って
いるのであります。

 ところで、その人の中味そのままを
みようとするという姿勢は、間違っては
おりません。ただ、そこに光をおくるか、
ねたみやそねみなどの業想念を送り込むか
というちがいなのであります。

 人は、誰でも、神様のみこころを
あらわすべく、この世に存在しているもの
でありますので、心をむなしくして、
己れをみ、相手をみる時に、おのずから
光が入ってゆく筈なのであります。

 それが、そうなってゆきませんのは、
自分と相手という意識のなかで、しっかりと
相手をつくっているからであります。

 神様からいえば、相手などというものは
一切ありません。あるのはただ、愛と光ばかり
天命ばかりなのであります。

 それぞれの立場、それぞれのおもい、
何が苦しく、何が辛いかを神様はよく御存知
であります。

 そうして、私どもを動かしている真実は、
本心の座にすすませるための神の愛
なのであります。

 どうぞ、一人びとりの天命を神に求め、
神に祈りながら、世界平和の祈りを通じて、
祈りを深めていただきたいものであります。
      昭和61年11月4日
posted by spacelight at 10:47| 祈り | 更新情報をチェックする