2015年10月19日

白光誌の支部集会所案内掲載の有無について

     註(平成2年当時)
 (問)白光誌に支部集会所の案内が無くなる
ということで、反対の声がかなりあるのですが。
 なくなると非常に不便になりますし、
白光誌の在り方からいうと、ちょっと
おかしいのではないかと思いますが、継続
してもらいたいという、それくらいの意見は
言ってもよいでしょうか。

 (答)言わなきゃ駄目。言わなきゃ駄目と
いうのは本部を痛めつけるとかいうのでは
なくて、いかに一人一人の心が大事かという
ことが分かってないんです。中央は分かり
難いんですよ。何故かと言ったら、皆人が
集まって来るでしょう。聖ヶ丘統一会、富士の
みそぎの会だというと皆来たいから、沢山の、
何百人何千人という人が来ますよ。だから、
あそこにいる人はみんな、ああ祈りの場所
だということで感激するんだけれど、実は
一人一人が個人にかえった時に、私はこんなに
病気で苦しんでいるとか、そういう苦しみ
というものがつい忘れてしまうんですよね。
見ようとしないのね。

 ところが、あの集会の連絡所という風にして
名前と電話番号を、昔は住所も書いていた
けれども、それを記載していると、そういう
声が届いてくるんです。支部集会というものを
通じて本部にも行くんです。こういう人がいる、
こういうケースがあるがどうしようかと。
 心ある自分の尊敬する講師の先生方に、実は
こういう人がいるんですけれど、こういう
時には先生どういう風にお浄めなさるん
でしょうか、どういう個人相談をと、こういう
ことはあったんです。ところが、あれを
無くしてしまうということになると、人間が
どういう風に悩んで生きて苦しんでという、
一番根本のところが分からなくなるんですよ。

 だから、一旦廃止させますけれど、廃止
させたら今度は本部の方が混乱して
しまうんです。何故かというと、
己れ尊しになっちゃって、そこのところで
人間の心が分からなくなるからね。そこで、
教科書通りの、五井先生はこう言って
いらっしゃいました、昌美先生はこう言って
らっしゃいますという、字句通りの解釈に
なってしまう。人間というものはそんなもの
じゃない。そんな単純なものじゃないから、
百の悲しみがあれば百の背景がある訳で、
そこのところを、もう一度、そんなものじゃ
ありませんよという風に、神様の方から言って
いただくには、一回あれを廃止して、不便
だとか不満だとかいう声を憤然と出させないと、
何が祈り心で何が宗教かということが分からなく
なっていますから、一回廃止させないと
駄目なんですよ。

 そういうお役目の人がいたんですよ。被害を
受けて何十万も持っていかれたとかね。毎日
毎晩いたずら電話がかかって迷惑だとかね。
 あったんです。あったんですけれど、そんな
ことではいけないんですけれどもね、でも
それは不心得だと言う前にやっぱり本部が
音痴になって、地方にいるものが音痴になって
いるというのを、今どうやって道路工事をして
直させようかなという結果が、ああいう一つの
荒療治に出た訳で、向こう側からみれば荒療治
なんですよね。
 中央の方で何も地方の声が分からない
というんじゃない。そのつもりではない訳で、
中央の方は汲みとろう汲みとろうとして、
自分で出来ていると思っているけれど、実は
汲みとってない訳だから、そこのところが
自主性がまだ弱いですよ、まだ出来てませんよ
というのを、こっち側からつつくという脚本
なんですね。


 (問)すぐに出した方が良い訳ですね。

 (答)幹事会や何かで言っていただいて
いいです。本部に支部から言ってもらっても
構いません。又、ブロック幹事会があるのなら、
そういう皆が集まる場所で、実はこういう
弊害があるだろうけれども、実際考えてみると、
これはとても不便で、一般に白光を知らない
人にも、五井昌久という人はどういう人間
だとか、神様というのは何だというのを
知りたいという人を増やしてゆくには、
支部集会の案内、電話の案内、名前の案内、
それを無くしてしまうということは
ものすごく不親切、一番不親切なんだという
ことを、そういう場所で堂々と出していただく
ことが一番いいことだと思います。どんどん
発言して下さい。


 (問)本部の理由づけの中で、五井先生が
個人のプライバシーを一番だと言われたと
どうのこうのとありますが。

 (答)そうでも言わなきゃどうしようも
ないでしょうね。
 今は居ないんだからね、死人に口なしだから
死人は弱いですよね。立場はね。
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2015年10月18日

支部集会の在り方について

 (問)支部集会の在り方ですが、支部集会は
どの様にあるべきか。最近はどちらかというと
本部指向というか、そう感じられますが、
これからの在り方についてお聞きしたいんですが。


 (答)つまらない話だね。本部もつまらないし
支部もつまらない、そういう考えでゆくと集会も
つまらなくなるでしょう。何か、やる方も燃えない
ローソクを相手にしているみたいじゃないですか。
 せっかくローソクをつけるんだったら、燃える
マッチを置いとかないと駄目になっちゃうんじゃ
ないですか。

 結局、支部とか集会とかいっても、どんな
人間の集まりでも、人間が生き生き生きる
というか、人間がその瞬間を楽しく自分が
生きていて良かったなという、充実している
想いに満ちてゆかないとね。それは宗教だけの
話じゃなくて、どんな団体集団でもそうなんです。
 で、そういうものが無くなってしまったら、
もうそこに属する気も無くなるし退屈でね。
 こんな所に居たくないや、ということになる。
 やっぱり、自分がまず生き生きできるか
できないかというところから、支部とか集会を
やってゆく人が入らないといけないですね。
 自己満足ということではなくて、自分の心が
生き生きしているかしていないかということは、
例えば宗教であれば、生命の本源、本心が
喜んでいるかいないかというところに基準が
ある訳です。そこのところを聞いてみて、
そこが生き生きしていれば、皆も生き生き
する訳なんですね。

 だから、支部集会の在り方というのは、
逆に言えば、人間の在り方生き方が素直で
あるか素直でないかにあるんですね。今の
本部は少し病気のところもある。別に誰が悪い
という訳でもないし、白光(真宏会)が悪い
という訳でもない。あれはあれでああいう
生き方を一回はさせられる訳なんですけど、
結局は、あそこでもって色々な人間の我
というんでしょうかね。神様の目から見ると
違うこともあるけれど、とも角人間の我
でもってどこまで出来るかどうか、バベルの
塔じゃないけれど、一回積み上げないと
人間というものは納得しないし、本当に
納得しないし、責任無責任になってしまう。
 つまり、何かこれが自分だというものが
無くなってしまえば、人間というのは
弱いもんでしょう。自分の存在を
ちゃんと証拠立ててくれるようなね、
寄っかかる、例えば、本部講師であるとか
准講師、常任幹事であるとか、そういう一つの
肩書きなり。肩書きというものはどうでも
いいんだけれども、そういうものがないと
人間は動きにくいんですよ。

 例えば、〇〇支部というものは本当は無く
てもいいんです。無い方が本当なんです。
 白光も無くていいんです。いいんですけれど、
それをしちゃうと、いつも言ってるように、
お祈りでも何でも最初形から入るということが
必要だというのは、まず皆で共通にできる形が
あってはじめて人間というものは安心できて、
それで神様に頼ってゆけるというところを
もっていますので、一応そういう意味で、形
というものが非常に大事だと。単に外形だけ
でなく、支部とか集会というものが人間が
集まって来る所ですからね。そこでは色々な
人がいますよ色々なタイプの人がね。10人
居たら、10人そのまま放っておいたら喧嘩に
なるんですよ。お互いがお互いを主張して
譲らなきゃ絶対喧嘩になるんですよね。
 どこかで譲らなきゃ絶対喧嘩になっている。
 それが、あの先生はこう言っていた、本部は
こう言っていた、〇〇はどうだ〇〇がどうだ
〇〇がどうだ、〇〇さんがどうのこうのという
ようなことじゃまとまってゆかないんですよ。
 誰がどうだこうだということは向こうから
見れば判っていることなんですよ。判っていて
使うんですから、その辺は堪忍してあげないと、
一段飛躍できないんです。

 とに角皆で祈っている時は、どの人がどうだ
とか、この人がこうだとかいう想いは無くなって
いるんですよ。世界人類が平和でありますように、
世界人類の中に自分が入っちゃう訳でしょう。
 個人名は無くなる訳なんですその時。自分が
とか、相手が誰々さんがとかね、〇〇さんが
優柔不断で、あの人何を考えているのか判らない
なんていう想いは、無くなるんですよ。その時
には。それが祈りなんです。そういうものを
実は一番中心にもって来ないと、人間という
ものはまとまってゆかないんです。

 要するに、自分を大事にする、相手を大事に
するということは、色んな自分の気持ちとか、
相手の都合とか自分の都合はさておいて、
元々の生命の本源のところで、そうですねと
言えるものを核心にもってこないと、人間と
いうものは本来まとまらないものなんですよ。
 何故かというと、人間というものは
そういう風にして神様から分かれて来た生命
だから、そうなんです。ですから、支部や
集会の在り方という前に、人間の在り方人間の
生き方というものを自分の中にどれだけ深く
問うてゆくことが出来るかという、今
どんな風に〇〇〇〇が問うているのか
どうなのか、そこのところで考えていかないと、
支部とか集会とか本部とかということになると、
永遠に腹を立てなくてはならない。

 私が居る時でもおかしかったですよ。色々な
人がいて。だけど私は絶対咎めなかったですよ。
 この人がこういう風にすると危ないなあとか、
色々思ったんですよ。この人が会社を経営
すると絶対倒産すると。でも倒産させたよね。
 それは、倒産ぎりぎりまで行って、パチンと
その人がぶつかって、そこで初めて、ああ人間
というものはどういうものなのか、弱くなる
ということはどういうことなんだと、そこで
悟る。一段階飛躍する。そこのところを
当て物屋みたいにして、あなた、こっちに
行ったら事故にあうからこっちに行きなさいよ
というのは、私は出来ない。それは、その人の
守護霊さん守護神さん、もっと言えば、
宇宙神が、その人の生命がどこでどういう風に
こう曲がって、どこでどういう風にぶつかって、
それで最終的にはこういう光輝く白光に
成るんですよという風に、計画書が皆出てるん
ですからね。だから、先生お願いします、先生
病気ですと言って来た時に、勿論、病気で
可愛想だなと思いますよ。家庭の中で争議が
あって喧嘩になっていれば、そういうものを
治めてあげたいと思うけれども、それよりは、
その人の幽体を浄めている訳ですからね。
 肉体の想いと同時に幽体を浄めて、幽体
というものを光輝くものにして、霊体神体
というものが本当に光に満ちたものに
なるように。皆の話を聞いてなかったというん
じゃなくて、聞きながらもっと高い世界へ、
世界人類が平和でありますようにという、
消えてゆく姿という祈りのエレベーターに
乗せて、生命のただ中に行けるようにしたのが
私なんですね。その役目を仰せつかったのも
私なんです。

 ですから、支部も大事です、集会も大事です。
 支部集会がなかったら本部もないんです。
 もっと言えば、どんな大きな所でも、
一人一人の人間が集まってないと集会には
ならないんです。社会にはなってゆかないんです。
 一人を忘れたところには崩壊が来るんです。
 確かにそうなんです。ただ崩壊が来るけれども、
崩壊というものが人間の我で来させているのか、
あるいは、守護霊さん守護神さんが計算ずくで
させているのかという判断は非常に難しいんです。

 だから、どんな事態が起きてきても、とに角
自分もなるたけ腹を立てない修行をする。相手を
責めない修行をする。それが一番近道なんですよね。
 で、もし腹を立てたくなったらですね、
五井先生に全部、あの野郎がああなんですがって
言っていらっしゃいね。その人に当たると、
その人の折角の修行の段階が曇ってくるん
ですよね。この野郎と想うとこの野郎が相手に
行っちゃうんですよね。それがいけないん
ですよね。この野郎と想ったらこの野郎を連れて
五井先生の所に来たら、この野郎を静めて
あげますから。

 固定観念で人を見てはいけないというのは、
ものすごく難しいんですよ。この人はこういう
人だと思い込むんですよ。この人は最後まで
話を聞かない人だなあとか色々思うんですよ。
 思うんですけれど、要するに、世界人類が
平和でありますようにとやっている時には、
そんなことはちっとも思わないでしょう。
 祈っている時には楽しいでしょう。そういう
つもりで人に対してゆくということを心がけて、
言葉を胸におさめるというんですかね、余り
語らない。語りたいでしょうけれど、語らない
修行をこれからしていって下さい。受け流して
ニコニコするというのが一番いいんですよね。
 敵をつくらないんですむんです。

 やっぱり、片腹痛い想いとかね、あの人に
任せてあの人はやり手だけれども、どうもと
言われてしまうと、まとまるものもまとまら
なくなるんですよね。人間はみんな癖があって、
癖があったっていいんだけれど、その癖を
強烈なものにしてしまうと、ある人に支持
されてある人に支持されないということに
なるから、やっぱりどこかで中間色を持つ
ということが一番いいんです。その中間色は、
集会というお仕事をする人にとってはお祈り
なんですよね。自分を押さえるとかいうのじゃ
なくて、神様に全部預けちゃって、神様
よろしくお願いしますというそこから始まって
ゆかなくては、とてもじゃないが、人間が
人間を治めるなんてことは絶対出来ないん
ですから。肉体人間の想いがやるんでは
なくて、後ろに守護霊さん守護神さんがついて
いる、五井先生がいる、五井霊団がある白光が
ある。人間の本来の姿は光なんだ神の子なんだ
という想いでやって下さることですね。自分が
やるんじゃないという想いでやると。それは
高慢になれというのではなくて、させて下さる
ということですね。それでやっていけば
腹は立ちませんよ。
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2015年10月17日

排卵誘発剤を使用しての出産について

 (問)水子オペとはちょうど逆になるんですが、
排卵促進剤というものも、脳死の問題と一緒に
論じられ、あまり良くないと、神様の御心を汚す
ものだと言われており、一方バイオテクノロジーで
遺伝子の組み替えも出来るという現状において、
子供が欲しいという人達は、手段があれば
どうしても使いたくなるものですが、このことに
ついてどうお考えでしょうか。


 (答)人間というものは、自分の願望をいつか
現実にかえたいというものがあって、そういう
想いがあって、だから、科学の発達、現代文明の
発達があり、今でこぼこのところもあるけれども、
こんなに便利になったでしょう。そういう中で、
生命について、たやすく排卵誘発剤を使って、
生命がポコポコと出て来るというようなことは、
人間が生命を管理するということになってくるから、
それに対してどうなんだという事だと思いますがね。

 科学というものは、人間世界で考えているような
ちゃちなものではないんですよ本当はね。生命に
対する科学というものは、もっと向こうの方では
進んでいて、排卵誘発剤なんて神界から見ていると、
何兆年前の一つの道具に過ぎないので、全部計算の
中に入っているんです。やたらそれをポコポコ
生んじゃって、無責任に、子供は可愛くないのに
生んでしまって、あとどうしようなんて無責任な
そんな人が増えても困るけれども、排卵誘発剤を
使うというような人は、よっぽどの人なんですね。
 本当に子供が欲しい。そういう気持ち、心
というものは、神様には通じているんですよ。

 私だって、まだ世の中に生きていた頃に、
如是我聞にかいてあるでしょ。この人まだ
赤ちゃんが生まれないと何回かお聞きして、それで
写真にお浄めをして、じゃあねと言ってしてあげた
というのは、まだあの時代にはそんなものが
なかったので、私はしてあげたけれど、要するに
そんなものなんですね。

 その人が、真実自分の欲望だけでなくって、
軽はずみな気持ちだけでなくって、本当に子供が
欲しいという気持ちがあれば、それが例え現象的に
排卵誘発剤であっても、それを使って、魂の親と
父親が相談して、この子が生まれるようにしよう
というような形で出てくる訳です。だから、
ああいうものはむやみに使ってはいけないけれど、
しかし、本当に今それを使って生まれて来ようと
している生命、あるいは、これから生まれて来る
未来の生命というものは、そういう意味では、
神様の管理下にあると考えた方がよい訳です。

 で逆に、産児制限をしている中国なんか一人っ子
しか駄目という、あれは悖(もと)るんです。
 どんな形であっても、人間が生活してゆくことで、
地球だって狭いしね、人間の生きてゆく都合という
ものがありますから、どんなに広い家を建てたいと
思っても、狭ければ広く出来ないということと
一緒で、人間がここまではいいよといって許された
枠というものをはみ出した時には、それは畏れを
知らないということになる訳ですね。その範囲で
産児制限を、原則的には私は産児制限は反対
なんですけれど、又、排卵誘発剤を使って産むと
いうことは、その枠を、人間の良心、宗教的に
言えば本心、そういうものに悖るかどうかという
ぎりぎりのところで判断して、そこでどうなんだ
という、そこで考えてゆかないと、徒らに人を
責めることになるし、自分を責めることになるし、
神様というものを疑うことになる。

 ただ神界では、生命科学の中ではそういう
ものも昔の昔の昔の道具になっています。
 ですから、今にそういうものを使わなくても、
人間が本当に祈り心で心素直に生活をしてゆけば、
自然に宿るようになるんです。それは何故か
というと、魂の親と地上の親の連絡というものは
本当は出来るんですから。本当は魂の親
というのは後ろにいつもいるんですからね。だから、
人間の性(さが)が本当に素直になってゆけば、
魂の親があと一年位したら自分に赤ちゃんを、
女の子を授けてくれるとか分かるように
なるんです。分かるようになる為にはやっぱり
遠く思うかも知れないけれど、祈ってゆかないと
どうしようもないんです。祈りというのは超能力
じゃないけれど、そういうものをもらうにしても
何にしても、祈りによって霊性開発して、自分を
素直にしてゆくところから全部始まるんです。
 科学も全部そこから始まるんです。そういう
ように考えて下さい。
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