2015年10月25日

統一の仕方について

 (問)統一についてですが、昔
五井先生が、ふんわりととテープで
おっしゃっておられますが、今、講師の
先生方の中には、それだけでは駄目だと、
もっと、なんて言いますか…、自力では
ないんですが、もっと光を描いて
というか、そういう風に具体的に
指示される方が結構いらっしゃいますが、
その辺はどうなんですか。


 (答)それは正論だとも言えるし、
そうじゃないと思う面もありますね。
 で、正論だと思うのは、大きな意味から
言えば、正論そのものなんですよね。
 何故かというと、人間というのは光
そのものなんですよ。ですから、自分が
光そのものだ、神様の子供だ、神様から
来ている生命だということに気がついて、
そこへずっと本心に呼びかけてゆけば、
何でも出来るんです。
 人間というのは、全知全能の神の流れを
受けて生きているものですからね。

 ところが、色んな現実などにぶつかって
いったら、なかなか人間の神性を
引っ張り出すってことは出来ないんですよ。
 ですから、南無阿弥陀仏がありアーメンが
あり、私の世界人類が平和でありますように
という祈りがあって、消えてゆく姿がある訳
なんです。私が生きている時には、全部
引き受けますからふんわりして
いらっしゃいっていうのは、それは変わり
ないんですけれどもね。
 ただ人類が本当の意味で進化していく
為には、みんな本当に光り輝く本心を
もっているんだということを、一人一人が
強くどっかで感じて信じていかないと、
いくら私が本の中でいい事を言っても、
原稿に書いても、ああいい話だけど私には
出来ないなあと思ってしまうと、そこで
成長が止まるんですよ。
 そういうものが自分の中にもあるんだなあ、
光の粒が自分の中にも沢山入っているん
だなあ、神様というものがつまりにつまって
いるんだなあ、自分は神様の場所なんだなあ
と思うとですね、そこで〇〇〇〇や〇〇〇〇
という個人を越えて、神様の場所になって、
その時働きの場所になる訳です。例えば、
印を切ることであったり、書を書くこと
であったり、色んな事であったりする訳
なんだけど、それを通して光り輝いていって、
その光がまわりに満ちてくる、そういう事
なんですね。

 だから、講師の先生が言ってる、それ
だけじゃあ駄目なんだよというのは、
自分の中にそういう生命があるという事を
気づかなければ駄目なんだよという、
そういう事でもあるんです。だから、
言葉尻を捉えて、あれはおかしいんじゃ
ないのかなあ、あれは五井先生が昔
ああ言っておられたけどというのは、
それはそうでもあるし、今はそれだけ
では足りなくなって来ているというのも
事実なんですよ。ただ、それを、お前達は
こうしなければ駄目なんだよという風な
ひびきで言ったとしたら、それは
間違いなんですよね。

 こうしなければ駄目っていうのは神様の
世界には無いんですよ。ただこうして
いった方が人類の進化にとって、
一人一人の進化にとって、人間の神性の
進化にとって絶対に必要な事なんですよと。
 つまり、愛念に満ちた言葉で伝えて
いかないと、反発とか寂しさとか、自分は
とっても出来っこないとか思って
しまうのでね、その辺の指導の仕方が
非常に難しいですよね。その人個人に
呼びかけながら、その人の幽体霊体神体
にまで呼びかけて、皆で協力して通す
ということは、神の所へ昇って行く
道筋だから、そこに何か不調和な想いが
出たらそれだけ皆苦しむ訳ですからね。
 その所で、祈り心を一つにして、とに角、
世界人類の中に自分の想いを溶け込ませる。
 そうすると平和になっていく訳ですから、
そこの所に想いを集中して、その想念を
明るくしてやっていくこと、これが大事
なんじゃないですかね。
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2015年10月24日

老人の生き方について

 (問)老人の生き方についてお尋ねします。


 (答)この頃は、若い人があんまり長く
生きたくないとか言う人が多いですよ。
誰かさんもどこかでそんなことを言ってた
けれども、何で生きたくないかというと、
どこかでね老醜を晒すという恐怖、それから、
体が弱くなってくるという、それを認めて
いかなくてはならないでしょう。老いる
ということはそういうことですよね。

 老いるということは、体力的な気力的な
ものの衰えというものを認めてゆかなければ
ならない。つまり、記憶もなんか悪くなって
きたとか、そういうマイナスの部分を認めて
ゆかなければいけない。だから切なさとの
戦いですよね。本当にそうなんです。60に
なったら60になった途端全部忘れて
しまっちゃって、今聞いたこと全部
忘れちゃって、又最初から読まなけりゃ
ならない、人の話も又最初から聞かなけりゃ
分からないというようになるんですよ。
本当にそうなるんですよ。70になったら
もっとひどくなるんですよ。皆そうなんです。
で、その一つ一つがね、自分にとって
恐怖なんですよ。

 又、老いると、人を容れるという寛容の
心が失せてしまう訳で、その寛容でなくなる
というのは、これはその人の性格という
よりも、その人の生きて来た年令がもたらす
生理的なもので我慢できない。気を長く
しようと思っても、その人のその時の体力
とか生活状態とか色んなことで、生理的に
もう我慢ができなくなって人を怒鳴っちゃう
とかね、そういうことがあるんです。
そういうものが正しく自分自身である
という風に、ある一瞬間でも見なければ
ならない。それが随分辛いんですよね。
それが恐怖になってゆくんです。それは
60に70になった人が恐怖だというよりも、
20代でも30代でも40代でもですね、
ああこの辺が我慢できなくなっているなって
いうことになると、人間って愕然となる
ものですよね。結局のところそのあたりの
ことなんですよね。
それでは、生きてゆく限り皆老人になって
いく訳ですから、老いていくということを
どういう風に考えて生きて行くか
ということはこれは永遠の課題なんです。
けれどね、生きるということは結局、
生かされているということなんですよね。
自分が生きるというよりも万物に
生かされているというね、その生かされて
いるところへ自分の意識をもっていくと、
それが全部感謝に変わっていく筈なんですね。
祈りによって感謝になってゆく。とても
感謝しきれない事もあります。悔しい事も
情ない事も生きている内に色々ありますよね。
ただ感謝しなけりゃいけない、いけない
いけないと思って、無理に感謝していくと
今度は病気になりますよね。ですから、私が
そのまま悔しい事悲しい事をお祈りの中へ
入れなさいと言うのはね、ありがとう
ございますと言うのが言い難い、言い
難ければ、それはそのままで、五井先生
お願いします神様お願いしますと言えば、
守護の神霊がそのまま祈って下さる
訳ですから。

 若い時には、あの祈りは大調和の
祈りですから、ああいいなあと思っている。
ところが、歳を重ねる毎に、あの祈りは
難しいなあと思う筈なんですよ。つまり、
すべてにありがとうございますでしょう、
ありがとうございますどころじゃない
気持ちの人達がね、世の中に一杯
いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、
息子とうまくいかない、孫が自分と離れて
いく、子供が自分の思うような方向に
いかないと、自分が生きて来た人生は
何だったろうと思う時にね、ありがとう
ございますとはなかなか言えない訳でね、
そのありがとうございますと言えない部分が
増えてゆく訳ですね。だけれども、それが
何故そうなってゆくかというと、その人が
生きて段々歳を重ねていって、人生
というのは一面から観れば、喜びや楽しみ
よりも何か寂しさと悲しみの方が多いという
ことを、自分の経験で知っていく訳ですよね。
ですから、その経験で計る以上は、何となく
虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
ありがとうございますと言えなくなるんです。

 ですけれども、そこでじゃあどうしたら
いいのかというと、それでも生命というのは
生きる事を止めないという、その事実
なんですよね。みんな生命というものは、
一つとして、この人の生命は要らない、この
草木の生命は要らない、この大地の地球霊王の
生命は要らないというものは何一つとして
ないんですよ。神様の目から観ると。
この人は悠揚で尊い高い魂だから、
こういう人には生きててもらわないと、
優れた人を見ると皆そう思いますよね。
ですけれども、黙って意見も言わない
ような、居るか居ないか分からないような
人を見ていると、なんか尊敬する気にも
なれないし、その人が何十年も生きていると、
何をうすぼんやり生きているんだろうと、
別に残酷な意味ではなくても皆思うんですよ。
ところがね、こっち側から観ていますと、
さっきの話の続きじゃないけれど、やっぱり
誰一人として神様の光を出さない人間なんて
いないんですよね。そういう人程ね、つまり、
何も主張せずぼんやり生きているように
見えるけれども、その中の火は燃えている
というような人、その人程本当に素直に
生かされている、生命のままに流れのままに
生きるということになるんです。

 老人が生きるのが何で難しいかというと、
そこの所に鋭さが鈍くなっていませんとね、
自分の経験によって生きて来た世界によって、
虚しさの方が多いじゃないかと観てしまい
ますからね、そこで負けてしまうんです。その
自分の経験の中に引き込まれちゃうんです。
で、それを跳ね返す力が弱くなるん
ですよね。ところが老人というのは、人間世界
から観た年令のことであって、これが魂の側
から観れば、魂の古い新しいはありますが、
しかし、生まれてくる生命の中には古い新しい
というものは無い訳です。みんな同じ資質
といいますかね、神の性といいますか、違いは
ありますが、そういうものを持って生まれて
来ているんですよ。だから、この世的に
60になろうが70になろうが、その人の魂が、
やっぱり自分は生かされてる、体が動かなく
ても、何かしたい何かやりたい何か役に
立ちたいという風に思っている限りは、
その人の魂は若いんですよ。ただ非常に
難しいのは、老人というのは、我というのが
強くなるんですよね、自分の生きて来た
経験ではこうだからこうじゃないか、これは
間違っている、これはおかしい
と思うんですよ。無理はないんですけれど
そうなんです。

 それがね、それが人間の我だって気づいて
それを直してゆくということは、なかなか
難しいんですよ。それが凝り固まってゆくと
意固地になり頑固になり、喧嘩ばかり
しているというようになる。そこに、
自分一人じゃない、自分は生かされている
という想いがあるということになってくれば、
自分だけの世界に閉じこもらないで、
歳とっても、もっと広い神様仏様の光の
世界があるということになってくれば、
本当に生命が朗らかになってくるんですよ。
だから何も宗教だけがいい訳じゃないん
です。広い意味で、いい音楽を聴いても
いい絵を観ても、いい本を観て感激する感動
するということは、それだけ心が若くなって
心寛やかになってくる。それは宗教と同じ、
根は同じなんですよ。

 皆さん縁あって白光を知り五井先生という
人に出会って、そこから神様という階段を
昇り始めた人達というのは、それで尚かつ
歳をとっている人というのは、何に気をつけ
なければいけないかというと、自分が素直に
なるって事と我を出すっていう事の違い。
そこを区別してゆくのはとても難しい
けれどね。素直になるというのは、ただ単に
自分の思うように生きたらいいというもん
じゃないんです。これは若い時から気をつけ
なければいけないんだけど、思うように
そのまま生きていったら皆我が儘に
なるんですよ。

 神様の流れのままに生きるということは、
私はよく書きますけれど、その神様から来る
流れの中では色んなものがあるんです。
調和しているものもあれば、一見して
不調和のものもある訳です。大波小波も
ある訳なんです。だから、流れのままに
生きる事は、その大波小波に覚悟して
いけますよという、そういう事なんですよ。
そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈
していると、悪いとみえるような事があった
時に、何で神様がいるんだろう、何で仏様が
いるんだろうになっちゃうんです。ところが、
その流れというのは、本質的には人間を
良くしよう、もっと調和させてやろうという
神様の心ですからね。それに本当に
乗っかって任せきっていればですね、必ず
光も送るし、必ず道が開けるんですよ。
そこの所で、ああ本当に私は生かされて
いる、本当に祈りがある、本当にここで
任せて任せて任せ切っていったら、自分の
生命が開くんだっていう風に信じ切って
下さればね、そこで人間の持っている老人の
持っている我なんて、ふっ飛んじゃうん
ですよね。70幾つの人が生きてる、
60幾つの人が生きてるというよりも、
その人の天命自身が輝くんですよ。

 ですから、素直になるっていうのはね、
あくまで神様に素直になるという事
であって、自分の我がでてくるという事
じゃないですよね。ただそれだけに私生活が
非常に難しい。だから、自分が非常に腹が
立ったり切なかったりした、そういう
気持ちを味わった時に、まてよこれは私の我
なのかなあ、それとも神様から来ている
流れの中で覚悟しろということなのかなあ、
ということを考えながら、世界人類が平和で
ありますようにとやってゆくと、お祈りの
中にこめられてる愛念がですね、そりゃあ
お前さん我だよとか、そうじゃない、
そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して
受けなさいって事は、後ろが教えて
くれますよ。自分が考える事じゃない
ですよね。後ろが教えてくれますから、
自分が想い悩み始めたなと思ったら、
とに角、祈って、五井先生に聞いて神様に
聞いて、これどっちなんでしょうと、
こっちに預けてくれたらですね、こっちが
ものすごく知らせやすいんです。

 それを皆預けきらないものだから、これは
どうなんだろうか、ああなんだろうかと
想い悩んで、あれはおかしいこれはおかしい
となっちゃうんです。あれはおかしい
これはおかしいという事は、神様の世界には
一つとしてないんですよ、完全ですからね。
ですから、あれはおかしいこれはおかしい、
これは苦しいですよ先生、という時には
こっちへ駆け込んで来ればいい訳なんです。
まだみんな駆け込み方が足りないんです。

 そういう事ですから、若者も老人も
ひっくるめて、生命に素直になって
生きるっていうことは大変なことですけれど、
そこを目指して、光に満ちた人が出来上がって
いくように、こっち側から応援していますから、
そんな風に生きていってもらったらと思います。
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2015年10月23日

平和行進について

 (問)平和行進についてお伺い致します。
 最近、全国的にみて、若干低調になって
いるように思われます。一時会員参加者による
発声は止められ、五井先生のテープによる先導
ということで、心の中で祈り言を唱えて
おりましたが、最近は再び五井先生のお声の後に
唱和するようになりました。

 私達は、世界人類が平和でありますようにとの
街頭唱和でもって、あたりを光で浄め、祈りを
知らない一般の方々への啓蒙活動になることを
信じて実施しておりますが、最近、少し軽視
されているように感じるのですが、現在では、
その時代ではないのでしょうか。


 (答)自分の信じている宗教、南無阿弥陀仏
でもアーメンでも、一緒に唱えるということは、
気持ちがすがすがしくなるんですよね。
 キリスト教であれば、アーメンと言った時に、
五井先生であれば、世界人類が平和であります
ようにと皆で唱える、守護霊様守護神様
ありがとうございますと言うと、そこでピタッと
この生命が一緒になるという気持ちを言って
下さっているんだと思うんですよね。

 必要が無くなった、段々回数が少なくなって
きているというのは、二つばかり理由が
ありまして、一つにはステッカーが貼られ、
ピースポールが世界中に建立され、書物などが
広まったということ。
 結局、平和行進は何が目的だったかというと、
勿論、自分でこの祈りが世界中で一番素晴らしい
と思って、祈りを知らせて下さる、今言われた
啓蒙ですよね。それと全然これを知らない人でも、
あの言葉を聞くと本当に心が和むという以上に、
平和に満ちてきて、別に白光を知らなくても
五井昌久を知らなくても、その言葉だけが胸に
残って、いつの間にか自分の生活の中にその
言葉が入るということだけでも、すごいこと
なんですよね。 
 ところがさっきも言いましたように、色んな
ステッカー等が貼られて、浄めの場所が広く
なってきた。ということは、平和行進の一つの
奥の目的は、光をふりまいて行くということ
なんです。浄めをしてゆくということなん
ですよね。どんな所にでも歩いて行って
踏み分けて行って、昔役の小角が山野を跋渉して
ということがありますけれど、本当そうなんです。

 役の行者だった時に、何故山野を跋渉したか
というと、それこそ怪(もののけ)ね、生き霊、
悪霊というものを全部光に変えていくという
ことが必要だったんですね。本当に、まだ
そういうものが幽界という閉じ込められた世界
ではなくて、地上の中に堂々と姿を現わして
いたような世界でしたからね。それをどんどん
光に変えてゆくという意味があって、肉体を
滅する位までの行をしながらやっていかなきゃ
いけなかったの。で、その古い弟子が〇〇君
であり〇〇君であって、皆そうなんですよね。
 皆飛び歩いた仲間なんですよ。

 だけれども、そうやって飛び歩いて、自分の
生命を差し上げますという位にやっていた
そういう人が、段々文明が進んで行って、生活が
便利になって、世界が狭くなってくると、皆
それぞれ生活というものがあります、暮し
というものがあります、経済もあります。そう
なってくると、そういう生命がけのことが
どこまで可能かといったら、なかなか出来ないん
ですよ。ですから、世界人類が平和であります
ようにというあの言葉に全部集約して、
このことを唱えると、愛の神様の愛念が、愛の
気が流れてきてね、そんじょそこらの低級霊
なんかは全部浄化されて、あの言葉を聞くだけで
唱えるだけで、光に変わってゆくというそういう
祈り言でしょう。それを唱え伝えるということは、
それだけでもすごいことなんですよね。

 もう一つには、皆がみんな生命を捧げたら人間
生きていけませんからね。やっぱり生きて行って、
その生き通しの生命を次の世界へ持って行って、
宇宙の平和の中に入り込んでゆくというのが
人間の真性ですから、そこで今の現在の状況に
合わせていって、世界人類が平和であります
ようにという祈り言が出て来た。
 で、この祈り言も昔は〇〇さんが言ったように、
自分の自己啓発もある、啓蒙もある、そういう
意味で、色んな所を言って歩いた。確かに
そうなんです、自分たちが最初言っていくことは
恥ずかしいですよね。ステッカーを貼ること自体
恥ずかしいですし、五井先生の著書を上げること
でも、つっ返されたらどうしようという想いが皆
あって、そこを乗り越えて皆渡したりするん
ですよね、リーフレットを渡したりね。皆それで、
それぞれ強くなってゆくんですよね。

 それが今は、ピースポール等が出来てきた
為に、皆がみんな世界に行かなくても、今度は
世界中にある程度ばらまかれたから、そこの国の
人がそこの国の言葉で感じて祈ってる。
 世界人類が平和でありますようにという言葉は、
世界語になってきてる訳ですね。世界語になって
宇宙語になっている訳です。元々宇宙人の全部の
人の言葉なんです。もっと言うと、宇宙人類が
平和でありますようにと言ってもいいんです。
 そういう言葉なんです。世界というのは
地球世界だけではないんですね。宇宙全体の
何億とある宇宙の全部の生命が、全体で体中で
祈っているのが、世界人類が平和であります
ようにという言葉なんですよ。この今の地球の
ここに話を戻すと、皆歩いてゆかなくても、
あちこちにピースポールが立った。

 そこでもし弊害が出てくるとすれば、
ピースポールやステッカーに頼っちゃって、
唱える力とか、唱えて感激するとか、あるいは、
大きな声で祈ることによる感動・感激とかを
通して、ああ神様というのは本当にいるんだな
というようなことが、段々回数が少なくなって
くるとそれは言わない訳ですから、そこで祈り
というものはいいもんだなあという、元初の感動
というものがなくなってくるんですよ。頼っ
ちゃうから。
 だから、皆がねみそぎなどに何故あんなに
集まるかというと、自分の言葉で自分の本心に
降りていって、五井先生に神様に大神様に挨拶
したい、あるいは、私はこういう風に思って
いるんですがどうなんでしょうかという想いを、
そのまま預けるというね。
 みそぎにあれだけ来るというのは、皆本当に
本心開発をやってゆきたい、霊性開発をやって
ゆきたいんです。とそういうことなんです。

 ですから、平和行進というものは、一つには、
祈り言葉が拡がっているから、そういう所でもう
しなくてもいいよという風に、とればとれるん
です。ですけど、〇〇さんが言ったみたいに、
自分の中の内奥の声というものを本当に
みつめて、そこから自分の内を努めてゆく。
 努めていって自分の人間の真性というものを
磨いてゆくという点から言えば、今これ程必要な
ものはないんですよ。平和行進位。それは自分の
為にもなる人の為にもなる。それは歩いている
だけで、人間は光なんですから浄まっている訳
ですからね。
 だから、一石三鳥も四鳥もなんですよ。そこに
それぞれの守護の神霊の加護がある訳ですからね。

 ですから本当に、祈りとは何ぞや、唱えるとは
何か。
 唱名念仏ということね、言いましたでしょう。
 あの親鸞も法然もね。唱名するということは
何かといったら、唱名している内に無になり空に
なって、永遠の生命の中に溶け込んでゆくという
ことなんですよ。自分もなく我もなく人もなく、
永遠の生命の中に溶け込んでいって、自分が
本当に朗らかな生命の光の一筋のその一部なんだ
というところで、三昧になるんです。三昧
というのは、原稿にも書きましたけど、単なる
法悦境ではないんですよね。自分だけの世界に
浸るということではないんですよ。ですから、
平和行進が単なる自己満足ですとか、良い言葉
だなあと酔いしれるというのですかね、その
程度で満足するのでしたらやらない方がまし
なんですよ。

 一時、平和行進の唱和を止めたというのは、
自己満足で自己顕示で酔いしれる人が
いますでしょう。これだけ大きな声で読んでます、
五井先生聞いて下さいと。しかし、本当の霊性
というのはそういうものじゃないよということを、
やっぱり磨かせる為に止めたんです。
 どんないい習慣でも、どんなに良い言葉でも、
それに人間が慣れてくると、その中にある光が
どんなに大きいか深いか広いかということに気が
つかないんですね。気がつき難くなるんです。で、
一回それをポンと突き放されて、例えば、
平和行進でも何でもね、はいじゃあ止めましょう
という形で止められてしまうと、その一人一人
にとって、どれ程大事でどれ程自分の中に
くい込んでいたかいないかということが分かる訳
なんですよね。あるいは、自分自身の意識の
上では、平和行進はそんなに必要ないと思って
いても、思いがけない人から、なぜ平和行進
しないんですかと、そんなことを他人から
言われたりして、他の人の中にそれ程くい込んで
いたかというようなことで知らされる。それが
その人の魂の開発になるというようなことが
あるんですよ。

 ですから、自己満足や自己顕示欲に終わるその
人達の魂の開発が、そろそろきちっとなって
ゆけばですね、魂が澄み清まって純度が高く
なれば、自ずから平和行進しましょうという風な、
つまり、集会の案内をもう一度出しましょう
と同じことなんです。

 やっぱりやらなきゃ駄目ですね、というように
実践の方へなってゆく筈なんですよね。だから、
平和行進をやって下さいという声を本当に高めて
下すって、やっぱりやって下さるということが
一番なんです。で、平和の祈りというものは、
本当は自分もない人もない、ただ神様の生命の
中に入り込むという大調和の祈りですから、
我というものを無くさせる祈りですから、
自分が自分がという我をとって、大我の中に
入れる祈りですから、やっていく内に、自分の
意識はとも角も、その奥の体の中には徳がずっと
積もってゆく訳ですよね。ですから大いにやって
いただいていいんです。
 本部が中心になるんじゃないんですよ。人間が
中心なんですよね。
posted by spacelight at 10:24| 祈り | 更新情報をチェックする